リチャード・ストールマン氏へのインタビュー

日時:2003.04.26 16:00-17:30
掲載:Internet Magazine 2003年8月号

ストールマン氏:
まず最初にGNU/LinuxとFree Softwareについて説明をしておこう。

いえ、私達はよく知っていますから、そのあたりは別にいいと思うのですが……。

ストールマン氏:
いや、あなた達は知らないと思う。

私は15年前からemacsマニュアルを読んでGPLには興味を持っていました。

ストールマン氏:
あなたはそうかもしれないが、ほとんどの読者はGNUについてあまり良く知らないだろう。ほとんどの読者はGNUのことをLinuxOSだと思っているようだ。そしてそれは間違っている。
また、彼らは私のことをLinuxに貢献した人だと思っているようだ。けれど、それも違うのだ。
だから、私達が本当のことを教えないと、わからないのではないかと思う。

そうですか……。
私は大学でGPLやコピーレフトについて教えているのですが。

ストールマン氏:
素晴らしいことだ。
しかし、GPLとかコピーレフトとかいうことはGNUの一部分にしかすぎない。
だから、私は読者に対してはもっと大きな枠組みについて伝えたいと思っている。

私達は今日それをききに来たのです。

ストールマン氏:
では、まず、二つの基本的な質問について答えよう。その後であなたの質問に答えることにする。ああ、二つというのはGNUとFree Softwareについてだ。

ストールマン氏:
最初に、とても重要なことがある。
まず、Free Softwareというのを日本語で言う時に、「フリー」ではなく「自由な」と訳してもらいたい。なぜなら「自由な」の方が良い表現だからだ。
その言葉の利点を活用して欲しいと思う。
また、同様にNon-Freeという言葉は、「不自由な」と訳してもらいたい。

フリーソフトウェアのアイディアはユーザが自由を得るということだ。
ソフトウェアを走らせる自由というのがこの自由の根本にある。(Freedom:0)

最初の根本的な自由というのがあなたたちをたすけることになる。(Freedom:1)
ソースコードのことを勉強して、自由に改変することができるからだ。

次の自由は、自分の属しているコミュニティの人たちを助けることだ。(Freedom:2)
それは、ソフトウェアのコピーを他の人に配布することができるということをさす。

三番目は、そのことによってコミュニティを構築することだ。(Freedom:3)
それは、改変してよりよいソフトウェアを配布するということだ。改変されたよりよいソフトウェアをプライベートに使うこともできるし、また改良されたものを使って配布することもできる。さらに、そのままで使う自由もある。

こういった政治的な目的というのが、“自由な”ソフトウェアをつかう目的だ。
これは知っていると思うが、ほとんどの人が知らないので一応繰り返して言っている。

私達は、GNUのOSの開発を84年から始めた。GNUとはOSのことで、単なるソフトの集合体ではない。
GNUソフトを開発しているのは、ユーザが自由を得るためだ。
なぜなら、コンピュータというものはOSがなければはしらせることができない。だから、自由なOSがなければ、不自由なソフトウェアを使用しなければならない。それでは自由を失ってしまう。
ユーザが自由を得るためには、最初に自由なソフトウェアを使うことから始めなければならない。そして最初に始めるのが、自由なソフトウェアのOSになる。その後で、全てのアプリケーションについて自由なソフトウェアがいる。まずOSが必要だ。なぜなら、みんながそれを必要としているからだ。

GNUというのは、人々に自由を与えるためにソフトをかく、そういうプロジェクトだ。
これはエンジニア的な態度とは非常に違う。エンジニア達の仕事は私達の目的とかけ離れたものになる傾向がある。もちろん、技術的なことに関してはエンジニアのみなさんに感謝をしているのだが。

エンジニアのみなさんは、私達の活動をオープンソースだとよくいっている。しかし、OSI(Open Source Initiative)の目的というのは、人々に自由を与えるということとは違っている。彼らが言っているのは、オープンソースはいいソフトを作るための方法であるということだ。

GNUのOSというのは、よくLinuxと呼ばれている。
しかし、Linuxとは、カーネルという一つのシステムのことだ。人々が実際に使っているのは、GNUとLinuxであって、Linuxはその一部にすぎない。つまり、それはGNU/LINUXシステムなのだ。

私達はGNUを1984年から作り始めた。そして1991年にはGNUはほとんど完成に近づいていた。ただ、一つの重要なシステムが欠けていて、その時にLinuxが開発され、それが欠けていた部分を埋めてくれたのだ。そして、GNUとLinuxが組み合わさって、完全なソフトが生まれた。


-イントロダクション終了-


多分日本でたくさん同じような質問されてうんざりしていたと思います。だから今日はそういうことがないように違う質問をしたいと思います。
私はGNUの思想やGPLを支持していて、また著作権の歴史を研究し、そしてあなたの考え方と一致しました。今日の著作権制度は変えなければならないし、私達はあたらしいシステムを作らなくてはいけません。

ストールマン氏:
その通りだ。

今日はGNUがもたらす自由について主に聞きたいと思っています。
最近では、ソフトウェアではなくハードウェアで管理される時代が来ようとしています。例えば、MSのPalladiumやインテルのLaGrande等でコンテンツが管理される時代が来ようとしています。

ストールマン氏:
それらは、ソフトウェアによって使われるようにデザインされている。
あなたの自由を尊重する形で(リスペクトする形で)ソフトが開発されれば、そうすればハードウェア-Palladium-のみでは自由を制限するものにはならないだろう。
しかし、ハードウェアがソフトウェアによる管理を容易にするように、つまりアプリケーションソフト会社が自由を制限することを可能にするように、ハードウェアはまさにそういう風に開発されつつある。そうなると、それによってそのアプリケーションソフト会社が市場を独占する形で開発ができることになる。

いい例としては、アプリケーションソフト会社がデータを暗号化することによって他のアプリケーションソフト会社のソフトでは読めなくするということがある。
これは独禁法にてらしあわせて違法なことだ。よって、そういうハードウェア自体も違法なものになるべきだと私は思う。

ハードウェアが署名とか暗号とかの機能を提供すること自体は妥当であると思う。ただし、それはユーザーの管理下にあれば、のことだ。そうでなければそれはコンピュータシステムの裏切り行為(treacherous)になるからだ。(ちなみになぜtreacherousという言葉を使ったかというと、trustedと同じtで始まるからだ)
さらにその言葉はそういったハードウェアをよくあらわしている。
なぜならコンピュータ自体があなたを裏切り、あなたに従わないことになるからだ。
そういったハードウェアが悪いのは、署名と暗号化のシステムによって、あなたがそれらを自分で効果的にコントロールすることができないようにさせてしまうからだ。

なるほど。ありがとうございます。では次の質問に移りたいと思います。
自由とは一般的に制限がないことを言います。けれど、管理によって自由を保障することもできるでしょう。例えばDRMでもその制限の仕方次第では自由を保障することは可能だと思います。

ストールマン氏:
それは意味をなしていない。
そして、私はDRM(Digital Rights Management)という言葉をDigital Restricted Managementだと思っている。

えっと、先に質問をつづけさせてください。
そもそも、GPL自体がGPLから逃れる自由を奪うことで、GNU的な自由を保証しているという意見もあります。
このことについてどのように思われているでしょうか。

ストールマン氏:
これはふたつの質問だな。そして、あなたは自由の意味を誤解しているようだ。
だから、私は二つの質問について一つずつ答えるとしよう。

まず、DRMはコンピュータユーザにとって非常に犯罪的なものだ。だからDigital Restricted Managementと呼んでいる。
DRMでいわれる弁護士の言う「権利(right)」というのは、「あなたたち(=ユーザー)の権利」ではなく、「あなた達をコントロールしようとする誰かの権利」なのだ。
オーウェルの1984年でいう"doublethink"な考え方なのだ。(

なるほど。……ただ、多かれ少なかれ私は法律家です。

ストールマン氏:
だが、あなたは他の弁護士とは違う考え方をしているようだ。だから、私の言うことも理解してくれるだろう。
私はDRMは存在してはいけないと思う。
私達は音楽・本・映画などを全て自由にコピーできるべきなのだ。そして私達はテープレコーダーやCD-Rなど、コピーをする機械を持つことができるべきだ。

GPLを強制するDRMを考えたりはしないのでしょうか?

ストールマン氏:
その質問には、もっと具体的な文脈的な背景とか、具体的な方法がないと答えられないな。

CC(CreativeCommons)のようなものはどうでしょうか?

ストールマン氏:
CCは良いアイディアではないかと思う。

あなたはCCをDRMと表現していますが、レッシグ教授はDRMではなくてDRE(Digital Rights Expression)であると主張しています。それについてはどう思いますか?

ストールマン氏:
レッシグの目的は、著作権者が自分のコンテンツを自由にコントロールできるようにする手段を与えよう、というものだ。しかし、CCをDRMのようなシステムにしてしまうことは、危険でもある。CCライセンスは良いアイディアであると思う。しかし、DREは良いアイディアであるかもしれないが、それは同時にDRMの方向に行く可能性もあるという意味で危険だ。
理解しなければならないのは、実際にDRMを推進しようとしている人たちは、CCのようなDREとはあまり関係なくて、別の所に目的があるということだ。
彼らがやろうとしているのは、今私達が持っているテープレコーダーとかコピー機とか、自由にコピーができるもの(=私的複製を可能にする道具)を全部奪おうということだからだ。
彼らがやろうとしているのは私達の自由を奪おうということだ。だから私達はそれに対して自由を守らなければならないし、戦わなければならないだろう。

あなたがたはGPLについてもう一つの質問をしていた。
GPLのコンセプト自体が、自由を制限していると不平を言っている人たちがいるということについてだが、それはGPLがソフトの改変をしてはいけないといっていて、それが改変したソフトを作ったユーザの自由を奪っているという意見であったりする。

GPLは全てのユーザの自由を守っている。
それが、まさにそのような人びとがGPLに反対しているということにつながっているのだ。

個人的な利益と共同体の利益のうち、共同体の利益に貢献するように作られているということですよね?

ストールマン氏:
違う。守っているのは、個人の自由だ。GPLは全ての、1人1人の自由を保護している。その中にはコミュニティを形成して一緒に働くという自由も含まれている。それと同時に個人で何かをする自由も保護されている。
これに反対し、GPLが制限だと主張する人たちは、他の人たちをコントロールしたい人たちなのだ。つまり彼らの言うのは、「彼らが私達のことをコントロールする自由」を私達が彼らから奪っている、ということなのだ。だから彼らは、奴隷制に反対する人に対して、反対しているようなものだ。

私の自由に関する考え方を修正してくれてありがとうございます。

ストールマン氏:
彼らが言っている自由というのは、自由という意味を引き延ばして自由とは違うものになっており、意味が形骸化している。だから私は、「自由」と「権力」をわけて使っている。自由というのは、自分自身が何でもできるということで、そして、権力はその力が他人に及ぶということとしている。
自由と権力という言葉をわけて考えれば、自由がどんなに良いことかわかるだろう。逆に、その二つを混合してしまえば、自由な社会と独裁的な社会がごっちゃになってわかんなくなってしまうだろう。
自由な社会というのは、1人1人が自分のやりたいことを自分自身で決定できる、そういう社会なのだ。

ありがとうございました。では次の質問に移りますね。
日本人とアメリカ人とでは自由の捉え方がちがうようです。ストールマンさんは世界各国で講演をしていると思いますが、各国でのGPLについての考えに違いがあるようでしたら、それについて教えて下さい。

ストールマン氏:
GPLについてはあまり思わないが、自由なソフトウェアにおける“自由”の意味については違いがあるような気がしている。例えば中国では、自由なソフトウェアの重要性をあまり感じていないように思う。
中国では、みんなどのようにして金持ちになるのかということしか気にしていないのだ。

それは、共産主義としては間違ってますね(笑)

ストールマン氏:
そういうのとは違うのだ。中国の人々は人々を助けるという理想的な行為に対してシニカルになってしまっている。これはロシアも同じだ。
そういう国-共産主義国-では、国が同じような理想論を抱えながら実際やっているのは独裁だったという背景がある。それが人々をとてもシニカルにさせている。
それで、彼らが理解できるものというのは、非常に極端な意味での利己主義ということになっている。他の人を思いやれなくなっているのだ。
人々と一致団結して何かすること自体が裏切られたかのように感じるようだ。
そういう行為-GPLの理念そのもの-が共産主義でおこなわれた独裁とイメージが似通っているように感じるのだろう。

逆に自由なソフトウェアについて非常に共感が高かったのは、ブラジルとインドだ。

それはなぜでしょう?

ストールマン氏:
わからないが、推測はできる。
観察してみて、全てではないが、大勢は理解しているつもりだ。

インドでは、ガンジーの思想がまだ息づいているからではないだろうか。
それは不自由なソフトウェアが植民地時代を彷彿させるということでもある。
つまり、自由なソフトウェアと「独立」という思想が似ているからではないだろうか。
また、ガンジーの闘争と私達の行動が似通っていることもあると思う。
例えばガンジーはイギリスから服を買うのではなく、自分で服を作ろうとするキャンペーンをした。また、イギリス政府から塩を買うのではなく、自分で塩を作ろうともした。
それは自分たちの使用するものは自分たちで作り上げようとした運動だった。それはスワデッシュ運動(スワデシ運動)と呼ばれている。
自由なソフトウェアはソフトウェアにおけるスワデッシュ運動なのではないだろうか。

なるほど……。ただ、日本は中国やロシアに近いメンタリティを持っているように思われます。
さて、今自由なソフトウェアの背景の心のあり方として独立というキーワードが出ました。

ストールマン氏:
独立というのは国家の枠組みではなく……

人々の独立、ということですよね。
日本でFSFやGNUの活動を広めるために必要な条件としてはどんなものがあると思いますか?

ストールマン氏:
それはわからない。
ベストは尽くすが、私は日本人ではないからな。

新部氏:
今、非常にいい状況にきているのではないでしょうか。
日本でいいソフトをつくれなくなっていて、どうにかしなきゃいけないというぎりぎりの部分に来て、各人が立ち上がろうとしている部分があると思います。

じゃあ、質問を教育に絞ってみます。どのような教育がGNUを支える人材を育てるのに有効でしょうか。
(ここで、教育を教育市場と訳してしまった)

ストールマン氏:
教育はmarketと言ってはいけない。areaとかfieldと言うべきだ。
市場といったらビジネスで何かを売ろうという形になる。
そして自由なソフトウェアはビジネスではない。

ビジネスとして自由なソフトウェアを開発してサポートするものもある。また、コミュニティの中にもビジネスはある。でも自由なソフトウェアはビジネスではなく、社会運動なのだ。
自由なソフトウェアの会社は市場を持っている。しかし、私達は市場をもってはいない。私達が話しているのは市民であって、顧客(消費者)ではないのだ。

自由なソフトウェアは教育分野で必要不可欠なものだ。そして、不自由なソフトウェアは教育の精神とは対極に位置している。
なぜ対極にあるのかというと、まず、教育というのは人びとが学ぶことを支援するものという点がある。しかし不自由なソフトというのは、あなたが学ぶことを許可してくれない。コンピュータサイエンスの教育というのは、人々にソフトがどう動くのかを教えるものだが、不自由なソフトウェアではそれが全て秘密とされていて、生徒がそれを学ぶことができない。

また、教育とは子供達に道徳的に優れた人間になるように教えるものだ。例えば、助けを必要としている隣人を助けることを教えたりしている。
私達が共産主義の独裁政権を拒否するのならば、私達は強制的に人を助けるのではなく、自然に人々を助ける習慣を身につけさせるべきだ。たとえば、ソフトを学校に持ってきたら共有しようということがあげられるだろう。

日本ではMSのようなproprietaryなソフトウェアを中学校から使用しようとしています。

ストールマン氏:
それはばかげたことだ。
私は、それは日本が貿易不均衡を解消しようと思ったのではないかと思っている。
全ての日本人がアメリカの金持ち企業にお金を払うようにさせられている。
しかし、これは、国家利益からすると非常におかしな話だ。

それはでも表面的な問題にすぎない。
(不自由なソフトウェアは)学校にとっては高価なものになる。
だから、日本政府はそれで予算不足を補おうとしたのだろう。
私は、日本人の雇用に対してもっとお金を使うと思っていたのだが、なぜマイクロソフトに大量のお金を払うことが、日本の経済刺激につながるのだろう?
マイクロソフトのプログラムをキャンセルして自由なソフトウェアを導入すれば、そんなにお金はかからないだろう。
余ったお金でもっと先生を採用して、よりよい教育のためにもっと色んなソフトを開発することを教えればいいのではないだろうか。
そうしないということは、日本では学校にお金があるのだろう。

いえ、そんなことは無いと思います……。
日本のプランについてあなたがばかげたことだと言ってくれたことが、日本に対して大きな影響を与えることを期待しています。

ストールマン氏:
そうなればいいのだが。
私がそのプログラムをやめて、自由なソフトウェアを導入するというプランを、説得できればいいと思う。

スペインでは既にそれがおこってる
エクストレーマドーラという州。そこはEUの中で一番貧しい地域だった。そして自由なソフトウェアを全てにおいて導入することで、経済復興をITでやろうとしている。
それには学校も含まれている。2人に1台のコンピュータを与え、わざと2人で共同して使わせることで助け合うことを学ばせている。そして、それにはGNU/Linuxが走っていて、ディストリビューションは彼ら独自のものだ。

エクストレーマドーラと言う名前自体が、”すごく難しい”という意味なのだ。
マイクロソフトの名前の意味とは逆だな(笑)
("extremely hard"と"micro soft"でソフトのライセンス条件と言葉の堅いと柔らかいでかけている)

もともとの意味は、土地が良くないと言う意味だったのだそうだ。だから困窮していて、それでこの州では自由なソフトウェアを学校で導入している。
また、スペインではもう一つの州でも同じようなことをしている。それはアンダルシアだ。


なるほど……。それでは、ちょっと面白い話をしようと思います。
あなたはリコーダーやフォークダンスを趣味にしているときいてます。
日本人の子供も小中学校の頃に必ずリコーダーやフォークダンスを強制的にやらされています。けれど強制的にやらされるためか、ほとんどの子供達はそれらを嫌いになってしまっています。
だから、日本でGNUが推進されるようになると、政府が強制的に推進するということになって、かえってみんなGNUが嫌いになるかもしれません。


ストールマン氏:
ソフトでそれが起こるとは思えない。ソフトは何かをするために使うものだからだ。
しかし、フォークダンスというのは何かをするためにするのではないし、リコーダーも同じだ。子供達は、ダンスをしているときになぜこんなことをやっているのだろうと思うのだろう。

だが、ソフトウェアというのは、Webサイトの閲覧とかチャットとか別のことをするために使用する。ものを書いたり音楽をコピーするなど、そういったことをだ。
だから、どのようなシステムを使ったとしても、それになれてしまうだろう。

日本の生徒達は日本語の読み書きを習っていると思う。だからといって、日本語を大嫌いとは思わないだろう?
同じように、アメリカでも英語を学んでいるが、そういう風には思ってはいない。
何かをするためにそれを使うというのは、別に嫌いになるということにはならないだろう。

なるほど。あと先の質問にも関係しているのですが、もし、政府がGNUをすすめると、GNUの精神の方は広まらないかもしれません。オープンソースのようなものになってしまうかもしれないのです。
GNUの精神を広める鍵というのは何でしょうか。

ストールマン氏:
その危険性はあるが、GNUを小さいうちから使って慣れていれば、彼らの社会的な価値観も変わってくるのではないだろうか。そうすることで、私達にとって非常に適した環境がうまれるのではないかと思う。
もちろん、それでは十分ではないだろうし、私達から自由の価値を伝える必要があることも事実だと思う。

ありがとうございました。私が用意した質問は以上です。

ストールマン氏:
今までの質問とは全く違ったインタビューで、とても面白かったよ。

不自由なソフトというのは、“不自由な”ソフトなのでしょうか、“不”自由なソフトなのでしょうか?
(訳しようが無いと言うことで、proprietaryとrestrictedをどう使い分けているかという問いになった)

ストールマン氏:
私はproprietaryとrestrictedというのは同じ意味で使用している。普段使っているのはproprietaryという方が多いのだが、意味を考えたときには、restrictedという方がいいような気がする。
ユーザーを従属させるソフトウェアとも言っているな。

GNUのソフトウェアというのは、使う人についても、作る人をそのまま前提としているような感じがします。
ユーザーサイドからは、GNUも不自由なソフトウェアも大差なく感じるのではないかと思うのですが。

ストールマン氏:
自由なソフトウェアのコミュニティは、ソフトウェアを作らなければならないので開発者が中心になっているのは確かだ。けれど、自由という価値観は全ての人にとって大事だと思う。
自由というのは、ユーザが自由に使えるということだ。それは個人でもそうだし、集団でもそうだ。それによって、個人で改変することができる。そのためには、あなたはプログラムを書く知識がいるだろう。しかし、グループでもグループ内の何人かが改変することによって利益を得ることができる。
グループでは、自分が開発者ではなくても、開発できる人がいればその人に頼めばいいのだ。そうやって、自分の意見を反映してもらえるだろう。開発者じゃなくてもユーザはそのようにして利益を受けることができる。
プログラマじゃない人は、プログラマにお金を払って自分のやって欲しい開発をしてもらうこともできる。
例えば、私にお金を払って、私が開発することもできるだろう。

例えば家を買って、家の嫌な部分があったら建築家にお金を払ってなおしてもらうように頼むことができる。そのように、自分で全てをやる必要はないのだ。その自由を利用して、他の人にやってもらうこともできるということだ。

修正という意味では、proprietaryなソフト会社の場合もマーケティングリサーチ等でユーザの声を聞いて改変をできるのではないでしょうか?

ストールマン氏:
それはそうかもしれない。しかし、それは彼らの決定に頼らざるを得ないだろう。
それは、そういう封建的というか、面倒見てあげましょう的(=paternalistic)な社会になってしまう。そういうソフトは支配から逃れられない。権力を持った人たちがあなたの面倒を見る、ということにゆだねなくてはならないのだ。
もし、会社が改変などをしてくれなかったらどうなるだろうか。

また、実際には、不自由なソフトウェアにはユーザにダメージを与えるような機能があったりもする。たとえばspywareだ。Windows Media Playerはユーザーがそれで何を聞いているのかをレポートしている。
Microsoftがもしマーケティングリサーチをしたならば、ほとんどのユーザはそんな機能は外して欲しいと言うだろう。でも、彼らがそういう声を聞くとは思えない。

日本では政府のレベルでも自由なソフトウェアを使用しようとしています。けれど、それと同時に、日本には消費者保護法という法律があります。
もし自由なソフトウェアに問題があった場合、今まではユーザの自己責任でしたが、これからはソフトの作成者の責任になってしまう危険性があります。

ストールマン氏:
その法律は変えるべきだ。
彼らが自主的に人々を支援しようと最善をつくしていることなのだから、それは罰せられるべきではないからだ。

物理的な製品に対しては、そういう消費者保護法のようなものは必要だと思う。
ある物理的な製品が特定のソフトと組み合わせて動くのであれば、メーカー側は「このソフトを使用しなくてはいけない」と言うだろう。
その場合は、メーカーがそのソフトについて全部の法的責任を持つべきだと思う。つまりはそういった場合、消費者家電のようなものでは、ソフトも含めてメーカーが責任を持つべきだ。例え、そのソフトが自由なソフトウェアであっても、メーカーが責任を持たなければならない。
自由なソフトウェアを売ることは別に特別なことではない。
だから、あなただって自由なソフトウェアのコピーを作って販売することができる。
それを100万ドルで売っても良いんだ(笑)

誰かがその値段で買うのなら、ですけど(笑)
一つ例を挙げようと思います。
SONYのPlay Station 3ではLinux……

ストールマン氏:
GNU/Linux

ごめんなさい。GNU/Linuxをいれるという話があります。
それでは、それはソニーが責任を負うということになるのですか?

ストールマン氏:
そうあるべきだ。
GNU/Linuxの開発者は、私も含めて責任を負うべきではない。

SONYだけが責任を負うということですか?

ストールマン氏:
その通りだ。
SONYは消費者に(Linux入りの)マシーンを売ってお金を稼ぐことになる。それによって、本来開発者のコミュニティにはいるべきお金がSONYにはいるようになるわけだ。だから、当然、報酬を得たSONYがその責任を負うべきだ。

消費者保護法の裏には多分こういうロジックがある。
1つ目は、私達はメーカーが信頼ある製品を作り素晴らしい仕事をすると求めることができるということ。2つ目は、彼らがきちんとした仕事をしている限り、彼らはなにかあった時の保証をおこなうことができるはずであるということだ。

PS3だけじゃなくて、ホームサーバというのもあります。ホームユース、コンシューマーユースのサーバです。
彼らが自分たちの作った製品によって利益を得ている以上は責任を負わなければならないということでしょうか。

ストールマン氏:
もちろんそうだ。
ソフトが自由なソフトウェアであれ不自由なソフトウェアであれ、物理的なシステムを売る者が法的な責任を負うべきだ。しかし、世の中には多くの種類の自由なソフトウェアをパッケージしたものを売っている会社もある。

例えばFreeBSDのような?

ストールマン氏:
FreeBSDもそうだし、GNU/Linuxでもそうだ。
重要なのは、彼らはSONYみたいに物的な何かを売っているのではなくて、データをのせたメディアを売っているだけだということだ。
自由なソフトは誰でも売ることができるため、高いお金で売ることができない。法的には可能なのだが、実際的に、経済的に不可能なのだ。だって誰もそんなお金を払ってくれないだろうから。

ソニーがブランクコンピュータをつくって「動かしたかったらGNU/Linuxを入れてくれ」と言った場合でも、SONYの指定したGNU/Linuxを作った人は責任を負わなくてよいとするべきで、SONYが法的責任を負うべきだ。SONYがそのソフトウェアをインストールしろと言った以上は、SONYがその製品とソフトウェアが正しく動くことについて責任を負うべきだからだ。
ただ、もし、消費者が指定されたものと違うソフトをインストールしたとしたら、それは消費者の責任だろう。

先ほど教育の話がありましたが、スペインの話のように、自由なソフトウェアをいれるのは私も賛成です。
しかし日本では、それを言うと「技術が使える人間を雇うコストがたかすぎる」という話になります。

ストールマン氏:
それは違う。もっとやすくなるはずだ。
日本は何十億円もつかっているはずだ。マイクロソフトの製品のライセンス料で。

新部氏:
もう50億ドルは年に使用していますね。

ストールマン氏:
それだけあれば、多くの数の人間が雇えるだろう。給料を5万ドルとして10万人は軽く雇えるんじゃないだろうか?

彼らは日本市場でお金を使うし。そうすればデフレもとまりますね(笑)

ストールマン氏:
その通りだ。素晴らしい(笑)

竹中大臣に言わなくては(笑)

ストールマン氏:
私もそう思う(笑)

ブラジルにウニバティス(univates)大学というのがある。彼らは大学システムを全て自由なソフトウェアにした。しかし、その中で必要なものがいくつか欠けていたので、節約できた予算をプログラマを雇うために使い、それで必要なソフトを書いた。
そして、それはうまくいってお金も節約できた。今では全て自由なソフトウェアで動いている。それは本当に数人で作られて、大学では必要なものができたのだ。
例えば、大学の図書館の管理システムが書かれている。図書館の全てを管理するシステムだ。また、大学の本屋さんのシステムも書かれている。図書の状態を管理するシステムも作られた。そして全ての形態の文書管理システムも作られている。

これは日本の政府でも簡単に実現可能なのだ。小さな大学で実現するよりも、大きな政府レベルでやった方がより実現可能だろう。組織が大きいほど、より多くの人がソフトウェアの開発に従事することができるからだ。そして、人が多ければ多いほど、ライセンス料をより安くおさえることができるようになる。たくさんの人間に影響が及ぶだろう。

人びとが気にかけているのは、自由なソフトウェアが雇用に与える影響だ。
proprietaryなソフトを開発する仕事があるが、その仕事はおそらく失われるだろう。その影響について考えてみよう。

全てのIT分野の中で、プログラムは小さな割合を占めているにすぎない。そしてその中でも1つの組織(顧客)に対してソフトを提供するカスタムソフトウェアの仕事がほとんどを占める。
カスタムソフトウェアに関しては、「自由」かどうかはあまり関係ない。不自由なソフトウェアでもクライアントがソースコードとそれに対する権利を得ることができるのであれば、それは彼らにとっては自由なソフトウェアであるから、それでいいとも言えるわけだ。

職を失う可能性があるのは、(パッケージソフトという)ソフトウェア業界の小さな小さな割合の部分だけなのだ。
その一方で、自由なソフトウェアは別の分野での雇用を創出する可能性がある。自由なソフトウェアではソフトを使うか使わないかの自由の他に、改変するかしないかの自由という選択肢がある。もしユーザがプログラマじゃなければ、改変して欲しいときに、他の人に頼むことができる。それというのは、誰かを雇って車をなおしてもらうのと一緒だ。
だから、プログラマにとってもソフトを改変するという雇用が創出されることになる。そしてその一方でコンピュータユーザは今日ライセンス料として払っている膨大なお金を節約することができるのだ。
その節約したお金をもっと別の場所に使うことで、コンピュータ化がより進むことになるし、結果としてIT業界全体が潤うのではないだろうか。
小規模の失業が発生することはあるだろうが、それ以上の雇用を生み出すことができるのではないだろうか。

ソフトウェアにはcustomizedソフトウェアとパッケージソフトウェアがありますよね。あなたが「自由」にするべきだと言っているのは、パッケージの方ですよね?

ストールマン氏:
その通りだ。ただ、customizedソフトウェアとcustomソフトウェアは厳密には違う。customizedの方は現存するソフトウェアを改変したもののことを指す。そして、特定の顧客のためにかかれたものをcustomソフトウェアと言う。私が言っていたのはcustomソフトウェアの方だ。
そして、カスタムソフトウェアはソフトウェア業界全体の90%を占めている。

日本でも90:10くらいです。

ストールマン氏:
世界のどこでもそうだ。90%のカスタムソフトウェアの企業の雇用は自由なソフトウェアの影響を受けない。残りの10%のパッケージソフトウェアが自由なソフトによって影響を受けることになるのだ。


Internet Magazine 2003年8月号掲載


※ doublethink (二重思考)
ジョージ・オーウェル「1984年」で使われている概念。簡略化するのが難しい概念であるため、本で述べられている定義を引用。この本は当会の必読図書であるため、読んでもらった方が望ましい。

doublethinkは、二つの矛盾する信念を頭の中に同時に保持し、またその双方を受け入れることを意味する。党のエリートはどちらの方向に彼の意識が操作されるかを知っており、従って彼は現実に細工をしていることを知っている。しかし、doublethinkの実行によって彼はまた、現実が犯されていないことを確信する。このプロセスは満足な正確性を伴うために意識的でなければならず、しかしまたそれは虚偽の認識とそれによる罪悪感を招く可能性があるため無意識的でなければならない。党の行動の中心的要素は、意識的に嘘をつきつつ完璧な誠実さを伴う目的に対する断固とした態度であるため、doublethinkはIngsocの核心を偽ることになる。本当にそれを信じつつ故意に嘘をつくこと、不都合になったあらゆる事実を忘れること、そしてそれがまた必要になったときは忘却の彼方からそれを必要であろう期間だけ取り戻すこと、客観的実在の存在をを拒否し、そしてその間ずっと彼が拒否する現実に注意を払うこと。これら全てが必ず必要である。たとえ doublethinkという言葉を使う時でさえも、doublethinkを実行することが必要である。この言葉を使用することによって、彼は現実に手を加えていることを確認する。そしてその直後にdoublethinkを実行することでこの知識を消去してしまう。そして常に嘘が真実の一歩前にある状態が永遠に続くのである。



2003年08月04日 公開
2003年08月06日 誤字訂正